アメリカのエンジェルスで大活躍の大谷翔平選手。 2023年のWBCでも大活躍でしたね。 大谷翔平選手の好感度は全世界中でもかなり高いです。 野球に対するストイックな姿勢だけではなく、周りへのさりげない気づかいなど本当に親ならどういう風に育てたらああいう子になってくれるのだろう?と誰もが思いますね。 今回は、大谷翔平選手の父親について、どんな人なのか、どのような教育方針があったのかを調べてみました。
大谷翔平の父親の現在の職業は?
大谷翔平の父親の学歴は?
大谷翔平の父親の教育方針は?
大谷翔平の父親も野球人!監督経験や野球歴は?

大谷翔平の父親は大谷徹(おおたにとおる)さんといいます。
1962年生まれで2023年現在62歳ぐらいだと思われます。
若い頃は甲子園を目指す高校球児でした。
そのあとは社会人野球に打ち込もうと、当時高校の先輩がキャプテンを務めていた三菱重工横浜に就職します。
三菱重工横浜にはすでに、高校生3人の入社が内定していた。そのうち2人は後にプロ入りする。ひとりは83年のドラフト3位で阪急(現オリックス)に入団した飯塚富司。もうひとりは85年のドラフト2位で阪神に入団した中野佐資。中野は阪神時代、和田豊(現阪神監督)、大野久とともに、村山実監督から「少年隊」と呼ばれた選手だ。「僕は高校生で4人目。時期も時期でしたし、取っていただいたという感じ」と徹は話す。
日刊ゲンダイ
三菱重工業横浜の野球チームに入って、都市対抗野球の神奈川代表のイスを争っていました。
大谷徹さんは1年目では肩を故障しましたが、1、2番打者の外野手としてかなり主力メンバーとして、プレーするようになりました。
しかし、なかなか代表の椅子は手に入らず、6年目の24歳の時「戦力外通告」を受けてしまいます。
これから若手を自分で引っ張っていこうと思った矢先の出来事でした。
戦力外通告を受けたのが夏、その同じ年の12月には同じ会社の大谷翔平選手のお母さん加代子さんとの結婚を考えていたこともあり、野球をやめてしまいました。
加代子さんは同じ三菱重工横浜のバトミントン部に所属していました。
「新入社員の男子は応援部、女子はチアガールのようなものをやるのが義務付けられていたのです。で、結団式というか、集まりの中で知り合いました。応援される方と応援する方で。結団式とか壮行会とか、酒の席があったりして、そこで、です。当時、僕は入社2年目でした」
週刊ゲンダイ
応援される側と応援する側、スポーツをする者同士何か通づるものがあったのでしょうね。
加代子さんも高校卒業後バドミントン部のある三菱重工横浜に就職したそうで、二人とも10代で知り合っていたようですね。
そして、大谷徹さんは24歳、加代子さんは23歳で結婚されました。
その後、岩手県にある自動車のボディーメーカーに転職。
大谷徹さんが再び野球をするようになったのは、大谷翔平選手が小学校2年生の時、地元の少年野球水沢リトルに入る時だったそうです。
「自分も勉強させてください」とチームのコーチを買って出た。リトルの練習は土日、祝日の朝9時から夕方5時まで。昼夜2交代制の勤務が夜番のときは朝まで仕事。残業があれば寝ずに、そのまま大谷を車に乗せて河川敷のグラウンドへ。夕方までノックバットを振った。大谷が中学生になり、リトルを卒業すると、一緒に一関シニアへ。
日刊ゲンダイ
大谷翔平選手の父親は水沢リトルでコーチ、監督、一関シニアではコーチをやっていました。
仕事をしながら休みの日は野球のコーチ。
父親も二刀流だったのですね。
大谷翔平選手にはお兄さんがいてそのお兄さんが野球をやりたいと言った時に、経済的理由や仕事の忙しさから見てやれなかったことが父親の心残りだったそうです。
子どものことをよく見てくれているとてもいい父親ですね
大谷翔平の父親も野球人!現在の職業は?

大谷周平さんの父親、大谷徹さんは2016年末に勤めていた仕事を退職しました。
「徹さんが会社を辞めたのは事実。もちろん翔平くんのサポート体制充実のためではありますが、もうひとつの理由が地元の野球チーム『金ヶ崎リトルシニア』の監督業の活動に専念するためです」
NEWSポストセブン

2014年に大谷翔平さんの父親大谷徹さんが数人の有志と立ち上げました。
中学生の硬式野球クラブです。
大谷翔平さんを育てたということでも有名な父親が監督になることでかなり注目されました。
立ち上げの2年後に大谷徹さんは会社を辞めて、金ヶ崎リトルシニアの監督に専念しました。
この時大谷徹さんは50代でまだ定年前ですね。
でも、会社員との二刀流はできないと言っていたそうです。
自分の息子を見ていて、体も気力も充分なうちにもう一度自分の夢を追ってみたいと思ったのかもしれませんね。
金ヶ崎リトルシニアには地元の有力選手がどんどん集まり、設立3年で全国大会出場を決めました。
2023年の夏に大注目された花巻東高校の佐々木麟太郎選手も金ヶ崎リトルシニアの出身です。
花巻東から怪物再び🔥佐々木麟太郎
— 【SS】大谷速報&スポーツ速報 (@30R9gmaMUy3guDJ) November 20, 2021
1年生で48号ホームラン!
試合前に「大谷選手の姿を見て、自分も花巻東に入りました。大谷選手のMVPを力にしたい」そう話し
いきなりHRを放ってみせた。
中学時代は大谷翔平選手の父、大谷徹さんの指導を受けていました。 https://t.co/4EQN6SblcW
息子の大谷翔平さんに夢を託すだけではなく、新たに自分の手で選手を育てようとするのは素晴らしいですね。
息子が夢を追い続けるように、父親としても夢を追い続けているのはとてもカッコいいと思います。
大谷翔平の父親の学歴は?
中学校時代
大谷徹さんは岩手県北上市和賀町の出身だそうです。

中学校は
- 和賀町立和賀東中学校
- 和賀町立和賀西中学校
のどちらかだと思われます。
初めの頃は坊主頭になるのが嫌で陸上部に入っていました。
やはり思春期の男子にとって坊主頭というのはいろいろ抵抗あるのですね。
中学2年生の時には三種競技(100m走/砲丸投/走高跳)で県大会6位入賞という実力でした。
しかし、個人の優劣がはっきりと出る競技が性に合わず中2の途中から野球部に入部します。
野球部ではエース兼4番打者として、県内の野球強豪校監督の目に留まる存在だったそうです。
途中で野球部に転向したのに、やはりスポーツ万能ですね。
高校時代
高校は地元の強豪校、県立黒沢尻工業に進みます。
大谷徹さんが中3の時、黒沢工業は通算2回目の甲子園に出場しまた。
2回戦で鹿児島商工を下して3回戦に進出して、翌年の春の選抜にも出場しました。
私学に決まりかけていたのだそうですが、黒沢尻工業の監督の、
甲子園を目指すならウチに来なきゃダメだ
という説得力のある言葉に行く先を決めたそうです。
高校では自分よりも上のレベルの選手たちが大勢集まってくるので、投手にはなれませんでした。
自分の実力を一番発揮できるポジションで外野手になったそうです。
打順は1.3.5番を打っていました。4番にはなれなかったようです。
さすが甲子園を目指すだけの強豪校。なかなか厳しいですね。
朝から晩まで野球漬けの毎日でしたが、残念ながら甲子園には手が届かなかったそうです。
高2、高3 初戦敗退 高1 決勝で盛岡一敗退
この結果ですっかり燃え尽き症候群になって野球をやめてしまおうと思いました。
しかし前述のとおり、やはり社社会人野球をやろうと三菱重工横浜に就職しました。
どうしてもプロ野球の夢が諦められなかったのですね。
大谷翔平への父親としての指導歴や教育方針は?

大谷翔平選手の父親徹さんは自分の経験を活かして、息子の翔平さんに野球の基礎から教えてきました。
それはお兄さんである龍太さんにしてやれなかったことをしてやりたいという気持ちも大きかったと思います。
監督として、父親としてどのように大谷翔平選手と関わってきたのでしょう?
大谷徹さんの指導
交換日記に書かれた3つの教え
大谷翔平選手はあまり父親から叱られた記憶はないのだそうです。
もちろんグランド上では厳しく指導されることはあったそうですが、家に帰ってからは叱られるということはありませんでした。
小学校の頃は父親と野球の交換日記をしていたのだそうです。
大きな声を出して、元気よくプレイする
キャッチボールを一生懸命に練習する
一生懸命に走る
この教えをもとに大谷翔平選手は頑張ってきました。
WBCでの活躍を見ていても、今でもこの精神は受け継がれているみたいですね。
実際インタビュー記事で大谷翔平選手はこう答えています。
三つの教えは基本的なものですが、今でも覚えています。それは、いつどのステージに行っても言われ続けることだと思います。特に全力疾走は、そのこと自体に意味がありますけど、その取り組む姿勢にも大きな意味合いがあると思っています
THE OWNER
他の選手への配慮
少年野球のコーチをしていると自分の子どもだけを見ているわけにはいきません。
ほかの選手にも配慮して、通常練習が始まる1時間前にグランドへ行って大谷翔平選手を指導していたそうです。
やるときは朝、グラウンドで、でした。練習中はあまり自分の子供を教えているところを見られたくなかったのです。ほかのお子さんや、その親御さんたちの目もありますから。ですから練習が始まる1時間くらい前にグラウンドへ行って教えていました
日刊ゲンダイ
大谷翔平選手にもその気持ちは伝わっていました。
監督やコーチの息子でも特別扱いは許されない。同じ実力を持つ選手はどんどん試合に出ていく。
圧倒的な力を身につければ誰にも何も言われないと、人一倍練習をしていたようです。
親の姿を見て、自分のするべきことを考えさせようとしていたのかもしれませんね。
大谷家の教育方針
頭ごなしに叱らず、自分のやりたいことをやらせる
大谷翔平選手は両親からあまり叱られた記憶はないと言います。
練習で疲れて帰ってきてそのままリビングのソファーで寝てしまっても、無理に起こされることもなくそのまま寝させてもらっていたとか…
あまり過干渉にはならずに、適度な距離が居心地がよかったらしく大谷翔平選手は家のリビングで過ごすことが多かったそうです。
外で厳しい練習をして帰ってきてとても家が心休まる場所だったようですね。
緩急をつけるのはとても大事なことだと思います。
また、3人の子どもたちに対して進路にも口を出しませんでした。
僕はこっちに行けとか、そういうことを言ったことがない。本人たちに任せています。最初の高校進学もそうでした。入れる、入れないはあるにせよ、(3人とも)自分の好きなところには行ったと思います。後になって、やりたいことがあったのにやれなかったというのはよくない。何かをやってみるうえで、まず、やること。後悔はしないことが大切だと思うので
一番大事なことは後悔のない生き方をすること…その思いが子どもたちにも伝わっていますね。
相手を思いやる気持ちを持つ
大谷翔平選手がどこに行ってもみんなから愛されるのは、とても相手を思いやる気持ちを持っているからだと思います。
どんなに疲れていても求められればサインをする、野球の道具を放ったりしない、ゴミ拾いをする…
いろんなエピソードがありますが、やはりそれも小さいころからの両親の躾だと思います。
必ず挨拶をすることが日課になっていたそうです。
バットやグラブを投げつけるとか、そういうことをしてはいけないよ、という話はしてきました。社会人時代にそういう選手がいたり、僕も何回かグラブを投げたり、何かを蹴ったりした記憶があります。そういう態度を見せて、仲間に対してもベンチの中でもいいことはひとつもありませんから
日刊ゲンダイ
モノを大事にすることで愛着がわき、人をも大事にすることにつながりますね。
そういう両親に育てられたので、大谷翔平選手の仲にも自然に相手を思いやる心ができたのでしょう。
親が子供の手本になる
大谷翔平選手がプロになってからも、父親は仕事を続け、母親もパートをやめませんでした。
大谷翔平選手が母親に「いつまで働くの?」と聞いたことがあるそうです。
大谷翔平選手のお姉さんもお兄さんも自分で働いて自立しています。
ご両親も自分たちの暮らしは自分たちでと思ったのでしょう。
翔平が活躍するようになったからといって、子供に、『ごめん、食わしてくれ』とは言いづらいですよね、親として
日刊ゲンダイ
また、父親の徹さんは働いていた会社を辞めて、ジュニアのために立ち上げた金ヶ崎リトルシニアの監督に選任しています。
いつまでも自分の夢を追い続ける背中を見て、大谷翔平選手も自分の夢を追い続けることが出来るのだと思います。
大谷翔平の父親も野球人!監督経験や現在の職業は?学歴や野球歴&教育方針まで徹底調査!まとめ
大谷翔平の父親はプロを目指していた。
大谷翔平の父親は学生の頃は甲子園を目指していた。
大谷翔平の父親の教育方針は伸び伸びとやりたいことをやらせること
やはり親の背を見て子は育つということでしょうか?
両親の一生懸命な姿は子どもに伝わるものですね。
これからの大谷翔平選手の活躍が楽しみです。
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