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【千日回峰行】の凄まじさを大阿闍梨の声と現行修行から明解に説明!

千日回峰行と大阿闍梨とは

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「千日回峰行」とは?

「千日回峰行は厳しい修行」と
耳にするけれど実際にどんな
修行をしているの?

更に京都土産で人気N0.1の阿闍梨餅。
この阿闍梨餅の「阿闍梨」
という言葉は何を示すの?

と疑問を持たれた方も
多いのでは無いでしょうか。

「千日回峰行」は漢字に示された
とおり千日間の峰を回る修行を
7年間に渡って行うという気が遠くなる
とても厳しい修行を言います。

この厳しい修行である荒行の
「千日回峰行」の7年間を乗り越え
満行された時に「大阿闍梨」という
称号が授けられます。

この千日回峰行と大阿闍梨は
現在では大別して2種類の宗派によって
行われています。

その1つは仏教の開祖と言われる
天台宗の比叡山延暦寺。

さらにもう一つは天台宗と開祖の時期が
重なる高野山の真言宗です。

実際に天台宗の千日回峰行を満行された
大阿闍梨は戦後14人。

歴代でもたったの51人です。

真言宗 高野山の千日回峰行を満行されたのは
1300年の歴史の中で2人です。

千日回峰行を満行された大阿闍梨が
少ないことからもかなり厳しい荒行で
あることは想像できます。

歩記事では天台宗の比叡山延暦寺延暦寺で
記録がはっきりと残っている戦後から
行われている内容での
千日回峰行について満行された
大阿闍梨の声を交えながら
わかりやすく説明していきます。

千日回峰行を満行された「大阿闍梨」の
凄さが理解できたら
大阿闍梨に会いに行きたく
なるかもしれませんよ。

 

目次

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「千日回峰行」とは

「千日回峰行」とは合計千回
比叡山中から京都のふもとまで
決められた礼拝場所を廻りながら
あるく修行のことを言います。

単に歩くだけ?と思われる方も
いらっしゃるかもしれません。

修行のステージによって異なりますが
ほぼ毎日30Km や60Kmの山道を
歩き回る修行です。

歩く場所が山道で起伏が多数あること
さらに早朝真っ暗な2時から出発する事
雨や雪の天気や寒暖の季節に関わらず
ひたすら一人であるき続けないといけない
そんな超過酷な修行です。

寒いからと言って温かい服装に
なるわけでもなく
雨が降ったからと言って
雨をはじく傘やかっぱを着るわけでも
ありません。

ひたすら歩くという同じ行動を
暗闇と孤独の中でやり続けること
これは厳しい修行の何者でも
ありません。

最後の9日間には「堂入り」と
呼ばれる最も厳しい修行があるのです。

「阿闍梨」とは「千日回峰行」の修行の中で
700日目の修行が終わった日に
与えられる称号です。

「大阿闍梨」とは
「千日回峰行」を満行した僧侶に
授けられる称号です。

「大阿闍梨」のことを親しみを
込めて通称「阿闍梨さん」などと
呼ぶ場合もあります。

本来、厳密には「阿闍梨」は
まだ千日回峰行の
700日から1000日の間の僧侶を
示すことになります。

 

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「阿闍梨」と「大阿闍梨」の違い

「阿闍梨」とは千日回峰行の千日のうち
700日までの修行を終えることが出来た
僧侶に授けられる称号です。

「阿闍梨」に「大」が付いた
「大阿闍梨」は千日回峰行を満行された
僧侶に授けられる称号です。

「大阿闍梨」は阿闍梨に教える事が出来る
立場となります。

京都のお土産で人気No1の阿闍梨餅。

これはこの厳しい修行である千日回峰行の
700日から1000日までの間の修行僧で
ある阿闍梨を示していると言えます。

一般の方々は大阿闍梨のことを
尊敬と親しみを込めて「阿闍梨さん」と
呼ぶ場合もあります。

ですからもしかしたら阿闍梨餅の由来となった
阿闍梨は大阿闍梨のことを示している
かもしれません。

この様に「阿闍梨」と「大阿闍梨」は一見
同様の称号の様に受け取れますが
実は異なるステージの修行僧を
示しています。

 

 

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千日回峰行の起源

千日回峰行は平安時代初期。
(831年~918年という説が主流ですが
一説には~908年という説があります)

比叡山延暦寺の相應和尚に
よって修行内容と方法が
形づくられました。

相應和尚の師は円仁。

師・円仁の入唐求法の「歩行(ほぎょう)」と
言う行を手本に作られたと言われています。

この相應和尚が形作った千日回峰行は
不十分な構成だったためすぐには
修行として取り入れられず
平安時代末期・相實によって完成さました。

山伏の元祖で7世紀末を生きた
役小角(えんのおづぬ)が
開いたとされる修験道の南山修験に対抗して
北嶺(ほくれい)修験
と言われることもあります。

鎌倉時代後期頃に
千日回峰行の起源となる手紙
(手文・てぶみ)が作られ、
その後室町時代初期から
具体化されて修行として
取り入れられる用になりました。

江戸時代前半の1571年に
延暦寺は織田信長の
焼き討ちに遭います。

そこで多くの資料は焼失して
しまいましたが、現在のような
千日回峰行のスタイルに
構成されたのです。

 

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千日回峰行の理念

天台宗に伝わる多くのお経の中に
法華経があります。

その法華経に示されている
常不軽菩薩・じょうふぎょうぼさつ
の精神が具現化されたものです。

常不軽菩薩・じょうふぎょうぼさつの
理念の中に次のような誓願されている
場所があります。

「いかなるものにも仏の姿を言い出し
礼拝をし続ける但行礼拝・たんぎょうらいはい
にてただ礼拝のみを行ず」

この理念は
常不軽菩薩の教えに従い
仏になろうと願う偉大な悟り
「大菩提心」の心を発案して
生涯ずっと「不軽の行」を実践された
相応和尚に由来しています。

また常不軽菩薩の理念は、
3つの行によって構成されています。

  • 悉有仏性(あらゆるものに仏性を見出し礼拝をする)
  • 下座行(すべてを尊し、他への奉仕する)
  • 不動明王・山王信仰
  • 加持祈祷
  • 根本中堂への供花
  • 葛川参籠

根本中堂への供花は旧暦の4月15日
西暦でいうと5月19日から90日
間行われます。

回峰行を始める出峯時に
供花・くげ作法を身につけ
比叡山の山中を歩くななで
決められた260余ヵ所全てに
樒・しきみの葉を供えること
とされています。

根本中堂への供花の由来は
相応和尚が礼拝をして
仏の悟りの世界に渡られ前に
根本中堂へ供花の行を毎日
行っていたという故事にあります。

上記の理念に加えて
天台宗の説く下記の理念を
統一したものが回峰行となりました。

  • 三諦(空、仮、中)の相即円融
    (差別がありながらも平等一体となること)、
    立体的総合的統一を具現化させる教え

  • 遮那・止観、顕としての四種三昧
    密の念踊の教え

 

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回峰行の流派

3流派あります。

  • 玉泉坊流
    無動寺の総本坊・法曼院の
    (無動寺回峯)

  • 石泉坊流
    西塔の正教坊流ともいう。
    1864年に途絶

  • 恵光坊流
    1987年に横川飯室谷にて復活
    (飯室回峯)

 

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回峰行は百日回峰行と千日回峰行の2種類あり

7年に渡り千日間行を行う
「千日回峯行」。

3年に渡って籠山(山ごもり)僧が
行う「百日峯行」。

いずれも比叡山の山中を歩き回る
修行です。

行を行う日数が100日なのか1000日なのか
という違いですが千日回峰行の方が
年数を重ねるに連れて歩く距離が増えます。

さらには「堂入り」と呼ばれる
最も過酷な不眠・不休・断食の行があるため
とてつもなく過酷な行です。

 

 

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千日回峰行の変遷

最澄が開いた天台宗。

平安時代後期に形作られた千日回峰行。

比叡山は織田信長の焼き討ちに遭ったため
資料が焼失しています。

現在の千日回峰行は
戦後初の千日回峰行を満行した
大阿闍梨叡南祖賢師よって
形が決められました。

 

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最澄の定めた12年の籠山制度

天台宗の開祖、最澄。

12年の籠山制度を作ることで
天台宗を伝承する菩薩僧を
養成ししていきます。

籠山とは僧が山にこもって
修行することであり
俗世間にふれることは許されません。

最澄が定めた12年の籠山制度とは
初めの6年は聞慧(学問)
後の6年は思修(修行)を行うものでした。

菩薩僧とは、菩提(悟り)を求め
仏と成るために精進し、
さらの他者に奉仕する大乗利他
の理想を持つ僧者のことを言います。

 

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相應和尚が開創した千日回峯

平安時代後期に形作られた千日回峯行は
7年の千日回峰行と更に5年間の籠山(山ごもり)
が含まれており合計して12年間の籠山となります。

7年間の千日回峰満行の後には
「「生身の不動明王」になるといわれ
これが転じて現在では
「大阿闍梨」を「生き仏」と
呼ぶ場合があります。

千日回峰行の行を行う日数は
実質は975日です。

残りの25日は
「生涯をかけて行を続ける」ことを
意味しています。

 

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戦後初の大阿闍梨叡南祖賢師が確立した現在の千日回峰行

戦後初の大阿闍梨となった
叡南祖賢師により相應和尚の
教えを守ったままでの
新たな千日回峰行が確立されました。

3年籠山行(四種三昧か百日回峯行)を経て
12年籠山行をしつつ千日回峯行を行う
というものです。

 

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千日回峰行の凄まじすぎる修行とその実際

回峰行者になるには
まずは「谷会議の承認」を
受けなければなりません。

1年目-3年目までの回峰行を「下根」

4年目-5年目までの回峰行を「中根」

6年目-7年目までの回峰行を「上根」

と言います。

もっとも厳しい修行は最後の「上根」に
行われる「9日間の堂入り」です。

不眠不休の修行が行われます。

 

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1年目-3年目の回峰行

まずは百日回峰行から始まります。

開始するタイミングは3月下旬。

1年に100日・毎日30㎞の山上山下道程を
3年間続けます。

決められた根本中堂の約260カ所で巡拝し
供花をして歩きます。

比叡山の山中を巡拝する距離が
30km(7里半)とされるのは
「第八識目の最深層にあたる
阿頼耶職・あらやしき」
に由来します。

1つ目は眼識
2つ目は耳識
3つ目は鼻識
4つ目は舌識
5つ目は身識
6つ目は意識
7つ目は末那識
8つ目が阿頼耶識・あらやしき
という大乗仏教の概念があります。

阿頼耶識を意識することで
「宇宙万有の展開の根源とされる
心の主体成仏)に満じない終生の修行」
を行うことを意味しています。

百日回峯行の75日目には、
一年に一回の化他行である京都切廻り
(京都市内の社寺巡拝、お立ち寄り)が行われます。

尚、この京都切廻りの行が行われるために
74日目の行は2日分の比叡山の山中を歩く
回峰行をこなします。

2回目の回峰行75日目順路は逆廻りと言われ
反対の方向から60kmをまわります。

京都切廻りは京都市内など
合計80kmを巡拝するのです。

京都大廻り、京都切廻りの際には、
信徒により結成された
息障講社・そくしょうこうしゃの人々が
行者を外護して歩きます。

かつては短刀を持ち警護していたと
言われています。

京都切廻りを行うにあたって
京都市内にあるいくつかの
寺に立ち寄って巡拝されます。

その立ち寄って巡拝することを
お立ち寄りといいます。

京都でお立ち寄りされるお寺の
情報についてはこちらを御覧ください。
[blogcard url=”https://perlman2020.jp/buddhism-ajyari/”]

京都切り廻りで初めて
蓮華傘の使用が許されるのです。

この蓮華笠を身につけた姿を
京都の銘菓である阿闍梨餅の
包装紙に描かれています。

 

「阿闍梨餅の名前の由来について」
「阿闍梨餅が京都土産NO.1の人気を誇る理由について」
「その阿闍梨餅を超おいしく焼きたてで食べられる満月本店について」
興味のある方はこちらを御覧ください。
[blogcard url=”https://perlman2020.jp/buddhism-ajyari-sweets-history/”]
[blogcard url=”https://perlman2020.jp/buddhism-ajyari-sweets-reason/”]
[blogcard url=”https://perlman2020.jp/buddhism-ajyari-sweets/”]

京都切り廻りは大阿闍梨が先導します。

こういった大阿闍梨の役割から
回峰行の指導役としての役割を大阿闍梨が
担っていることがわかります。

60kmもの距離を一日で歩くと草鞋も
摩耗して交換が必要となります。

草鞋はお立ち寄りされるお寺で
交換されます。

この回峰行をともにした使用後の草鞋は
無病息災の祈願として家の下駄箱の上に
おいておくと良いとされています。

百日回峯行後の7月16日-20日には、
葛川参籠の夏安居・げあんご・の行が行れます。

相應和尚が859年から3年間
葛川に参籠したことに由来し足跡を
たどるために行われるとわれています。

葛川参籠には千日回峯行者・初百日回峯行者・
全国の回峯行者・息障講社の信者が集って
葛川明王院に籠もる行事です。

この際には、伊香立途中から宮垣善兵衛家
当主が花折峠まで案内し、
引き続き葛川坊村の葛野浄喜・浄満が
行者を案内します。

相應和尚が17日間の間、
断食し祈念していると滝壺に
生身の不動明王が現れました。

滝壺に飛び込み不動明王に
抱きつきましたが
いつの間にか一本の桂の木に
変わっていた。

という故事にちなん行われている
行事なのです。

明王院、比叡山、近江・伊崎寺には
この霊木に刻まれた像が納られています。

その三の滝まで導いたのが、
浄満と浄喜の二童子でありその子孫
である葛野浄喜・浄満の両家夫婦が
この行を引き継いでます。

千年の歴史を持ち現在も引き継がれて
続けられている行事があることもまた
驚きです。

葛川参籠の最後に三の滝で護摩を焚き、
加持祈祷、初百日回峯行者が実際に
滝壺に飛び込むのです。

 

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4年目-5年目の回峰行

年に200日・30㎞の山上山下道程を
1-3年目同様、4年目と5年目も歩きます。

30Kmを歩く日数が100日から200日に
増えます。

5年目の500日の修行が終わると
白帯(びゃくたい、下根満)行者
となります。

700日目が終わった日のことを
「当行満(とうぎょうまん)」と言います。

この700日目で初めて「阿闍梨」と
呼ばれるようになります。

これより弟子を教え行為を正す立場に
なるのです。

中根(ちゅうこん)の行はここまでです。

ここからは今までの「自利行(じりぎょう)」から
「化他行(けたぎょう)」に変わります。

この頃より、小僧の後押しが
行われるようになります。

この小僧の後押しは阿闍梨餅の
包装紙の中にも描かれている有名な光景です。

 

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6年目-7年目の回峰行

6年目の100日はそれまでの行程に加え
比叡山から雲母坂を下って赤山禅院へ至り
赤山大明神に花供を行い、再び比叡山へと
上るという往復の道のりが加わります。

合計で1日約60Kmを歩くことになります。

この6年目の100日間は「赤山苦行」とも
呼ばれ既に5年間あるき続けている
行者の足でも14~15時間を要する
行程なのです。

700日目が終わった日のことを
「当行満(とうぎょうまん)」と言います。

7年目では200日を巡ります。

6年目より100日も増えるのです。

前半の100日間は“京都大廻り”
(洛中洛外大廻り)と言います。

比叡山中から赤山禅院
さらに京都市内を巡礼し
全行程は84Kmにも及ぶ
長距離の歩行となります。

これは、回峯行中最大の難関なのです。

赤山禅院で支持者組織である京都の息障講、
無動寺信者一行が加わります。

先頭はお先、大阿闍梨、行者、信者数十人が
続き京都市内の寺社各所を巡拝していきます。

また、各所でお加持、信者の家に
立ち寄り(お立寄り)接待を受けたりもします。

最後の100日間は、もとどおり
比叡山の山中を30Km巡るコースとなります。

この比叡山の30Kmの歩行は
かつての延暦寺の勢力範囲内の
結界守護の意味を示しています。

901日目以後
千壇護摩供を行い、断食、断水、不眠を通して
護摩木を焚来続けます。

護摩壇の火柱は2mに達し
護摩壇に座って真言を
唱えるさまは火あぶり地獄
そのものとも言われるものです。

そして千日の満行により
「大先達」、「大満行・だいぎょうまん・」
そして現在よく使われてる称号の
「大阿闍梨」との呼び方で尊称されます。

最後は、京都御所に「土足参内」し
「玉体加持」を行って終了となります。


これは平安時代、第56代・清和天皇后
染殿皇后の病気平癒祈祷が慣わしと
されています。

千日間の回峰行で歩いた
その全行程は38万㎞。

地球一周は赤道上で約4万Km。

ですから地球一周以上を走破したと
言うことになります。

土足参内以後には
相應和尚の命日である
11月2日と3日にかけて
八千枚大護摩供が行われます。

 

最も過酷な修行「堂入り」

堂入り(明王堂参籠)が最も過酷とされる修行です。

今生の別れの宴である
いわゆる最期の晩餐とも言える
「斎食儀(ざいじきぎ)」が行われ
堂入りの心構えの準備を行います。

10月13日から21日までの9日間
無動寺の明王堂に籠り
一切の食事と一滴の水をも絶つ苦行に入ります。

「生きたままの葬式」と置き換えられる程
過酷なのです。

闇の中で眠ことの許されない
「断食断水不眠不臥」の
9日間が続けられるのです。

最初は禅定の姿勢を
外陣の籠り所で行い

次いで、内陣で
午前3時と10時と午後5時に1時間ずつ
合計3回の「一日三坐」お勤めが行われ
ひたすらお経が唱えられます。

ここでは陀羅尼を10万回唱えます。

不動明王の念持仏に
拝むように行われます。

周りは逆さ屏風で覆われおり
常に孤独との闘いですが
堂入りでもまた孤独との
闘いが続きます。

一に1回、午前2時には
閼伽井(井戸)までの約200mを
昔ながらの桶を棒の前後に提げて
肩に担ぐ方法で歩いていきます。

これは本尊に供える水を汲むために
出かけるのです。

閼伽井に出かける際、お堂内を
自力で三回廻る「三匝」を
行わねばなりません。

刻々と変化する体の状態は
次のように表現されます。

3日目には体の水分が抜けて
座っているのが困難に。

それを乗り越えるて初めて
聴覚、嗅覚が研ぎ澄まされ
別の空間にいるような感覚になります。

5日目にやっと口をすすぎ
脇息護法の肘掛に肘を
置くことが許されます。

7日目には自らの死臭漂う感覚を
味わうと言われます。

最終日の9日目には
親族と僧そして信者が集い
堂入りの終了を待つのです。

最期のお水取りが行われる午前2時まで
その時を待ちます。

お水取り終了後、午前3時、
「出堂の儀」で法曼院政所職が
文章を読み挙げ「堂入り」行の
終了を告げます。

先達の大阿闍梨から
「朴の木」を煎じた薬湯を
頂き口に含みます。

最後の力で満お堂を3周を回る満礼拝
を行い鐘が鳴らされ大阿闍梨と
なるのです。

 

最も過酷な「堂入り」を終えた大阿闍梨の声

千日回峰行を2度続けて
1980年と1987年に行った
故・酒井雄哉大阿闍梨。

酒井雄哉大阿闍梨は
2013年9月頭頸部にできた腫瘍がもとで
87歳の生涯を閉じられています。

1994年に戦後11人目に
大阿闍梨となられた
上原行照大阿闍梨。

このお二人が「堂入り」の際の
思いや様子を話されています。

酒井雄哉大阿闍梨は
「4日目から体から死臭がする」と。

7日目に死臭を感じる阿闍梨が
多かったようですが
酒井雄哉大阿闍梨の場合は
早くも4日目には仏と通じる世界を
感じられたのでしょう。

その人間を超えた仏と通じる世界観を
酒井雄哉大阿闍梨は以下のように
話されています。

「感覚が冴え渡り先行の灰が落ちて
粉々に避ける様子がスローモーションに見えて
砕ける音まで聞こえるようになる。」
と。

仏とともに出来る境地の世界に
入られたであろう
酒井雄哉大阿闍梨のお話です。

きっと、そのお線香の先におられる
不動明王の足をとすら
聞こえていたのではないでしょうか。

上原行照大阿闍梨は「堂入り」の
荒行をクールに話されています。

「僧侶としての自覚。」

「空腹や水が飲めないと
苦しんでいる人を見て、
自分も苦しんだ経験がある。」

「だから、考えようによって自分の幅を
広げさせてもらうための一つの修業
だったのだと思います。」
と。

大護摩で祈願されている
世界平和につながると思える
淡々とした冷静な
お話です。

 

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回峰行の一日のスケジュール

出峯する前に
不動明王と矜羯羅童子と制吒迦童子に
供花を行います。

そして午前2時に無動寺明王堂出発。

比叡山の山中はもちろん明かりなど
ありません。

真っ暗の中、手にしている
小田原提灯の明かりのみで歩き続けます。

出峯する時の草鞋は、死者と同様に
室内から履きます。

初日は大阿闍梨が先導されます。

山中の行者道を進み
決められた約260ヶ所で但行礼拝。

東塔の根本中堂・大講堂・戒壇院・
山王院・浄土院へ

さらも西塔の椿堂・にない堂・
釈迦堂・峯道(玉体杉)を歩き

そして横川の中堂・慈恵大師御廟・
四季講堂・恵心院・八王子山・
日吉大社・滋賀院門跡を進んで
坂本から不動坂を登るコースとなります。

所要時間は6-7時間。

無動寺には午前8時頃には
戻らねばなりません。

無動寺では普段の仏様のお世話である
掃除や庭整備、祈祷などの勤行を
こなします。

そして5-6時間の睡眠をとり
翌日の回峯行に備えるのです。

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回峰行はの装束が示す意味

行者の装束は不動明王そのものを
表現しています。

白い麻生地の浄衣と切袴は死に装束の際に
も用いられるものです。

足には素足で手甲脚絆、
八葉の草鞋を履きます。

八葉の草鞋は墓石となっている蓮華台を
表現しています。

右手に檜扇(ひせん)を持ち、
この檜扇は不動の利剣をかたどっています。

左手に念珠を持ち、
これは不動明王が持つ羂索(けんさく)を意味します。

雨の日だからといって雨具はありません。

肩から着茣蓙(きござ)と呼ばれる「ござ」で
で肩を被うだけなのです。


回峯行は、行不退とされています。

どんな理由があっても止めることも
休むことも出来ません。

常に死が意識されており
三途の川を渡るのに必要とされえいる
船賃である檜笠の六文銭を身に着けています。

死出紐が腰に巻かれています。

降魔の剣といわれる短刀も身に着けます。

相應和尚が修業の合間に花を摘んで
根本中堂に供えていたことに
由来します。

目的は花切りのために使われます。

手巾を持ち万が一途中で回峰行を
断念した際には比叡山の外で自害
するために用いられるとされています。

行が半ばで挫折するときは自ら生命を断つ
という厳しさでその昔は回峰行の修行が
行われていました。

戦後の回峰行者では挫折する
行者は今の所いません。

「死を覚悟するくらいの気持ちで
取り組みなさい」という意味を示すように
現在では捉えられています。

回峰行開始の当初は未敷(みふ)蓮華という
蓮の蕾を表す巻いた笠を身につけます。

さらび手文・法縄・錫杖・頭陀袋なども
携帯します。

300日を過ぎると素足ではなく白足袋を
身に着けて草鞋を履くことが許されます。

400日目からは不動明王も持つ
蓮華笠を頭にかぶることが許されます。

4年目の550日より
白帯袈裟・御杖が許されます。
この姿より白帯行者・びゃくたいぎょうじゃ
下根満・げこんまんとも呼ばれる
ことがあります。

 

 

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大阿闍梨が住職になる無動寺

後身の指導にあたるため
住職になる僧侶が大阿闍梨のみと
されているお寺があります。

それが無動寺です。

2019年現在は無動寺明王堂の住職は
2018年に大阿闍梨になられた
叡南(釜堀)浩元師です。

「一山善住院住職 釜堀浩元さん」
とこの画像では書いてありますが
比叡山延暦寺もサラリーマンと同様
異動がありお寺の住職は3年毎に
変わります。

異動することなく同じお寺で2期目3期目の
住職をされる僧侶もおられます。

ですから無動寺明王堂の住職がです。

さらに釜堀浩元とは旧姓であり
2018年に叡南俊照さんの養子になられました。

ですから現在は叡南浩元さんです。

尚、叡南俊照さんは1979年に
大阿闍梨になられています。

その叡南俊照師大阿闍梨は
律院におられます。

非常に人気が高く律院を訪れる方は
後をたちません。

そんな叡南俊照大阿闍梨と律院の魅力について
ご覧になりたい方はこちら。
[blogcard url=”https://perlman2020.jp/buddhism-ajyari-shun/”]

大阿闍梨である無動寺の輪番(責任者)が
必ず勤めるように決まっている
飯室回峯という行事があります。

この飯室回峯は1987年
酒井大阿闍梨の2度の千日回峰行の
満行により復興されました。

 

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凄まじい千日回峰行を満行された大阿闍梨からスピリチュアルパワーを

「千日回峰行」「阿闍梨」「大阿闍梨」
といった言葉の解説

千日回峰行の実際の内容全てををわかりやすく
書いてみました。

こんなに凄まじい千日回峰行だった事が
改めてわかります。

神社仏閣といったパワースポットで
生きるスピリチュアルパワーをGETするのも
一つの方法です。

それに加えてさらの
凄まじい千日回峰行という修行を満行された
大阿闍梨さまを通して日々生きる
私達凡人のエネルギーへと変えることが
できたらいいのではないでしょうか。

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